Tuesday, 16 April 2024

ゆうゆうインタビュー 高橋晃

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モンゴルでのボランティア活動について話して下さい。

現在、私はサンディエゴ大学 (USD) と自ら主宰する教室で日本語を教えていますが、8月の1カ月間は休暇を取り、モンゴルの高校で無償で日本語を教えています。

モンゴルの首都ウランバートルに国内唯一の私立高校「新モンゴル高校」があります。東北大学大学院の教育学研究科で学んだモンゴル出身のジャンチブ・ガルバドラッハ (Janchiv Galbadrakh) さんが「人材育成のため、祖国に日本の教育制度を導入した高校を」との願いを込めて2000年10月に創設した高校です。山形県を中心とする日本人の援助によって建てられた高校ですので、あらゆる部分で日本の物を利用しています。例えば、制服は山形の高校生の古着を着用していますし、机、椅子、黒板も全て日本から届けられたものです。

モンゴルの高校は本来2年制ですが、日本と同様に3年制に改変することで生徒の学力向上を図り、海外留学の道を開くという意向なのです。ところが、平均月収80ドル程度と言われているモンゴルでは、年間学費400ドルの負担は非常に大きく、高校2年から3年へと進級する生徒が少ないのが現状です。「生徒の学習意欲を無駄にしたくない」という思いから、私は昨年より当高校でボランティア活動を行うようになりました。また、一人でも多くの生徒に勉学の機会を与えられるようにと、今年になって「モンゴル奨学基金」を設立しました。



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ラホヤ高校にて。この写真は教え子たちからのクリスマスプレゼント。 (1991年)

——モンゴルとの出会いは。

2年前の夏に娘を連れて中国旅行に出掛けた時、オーストラリアから来ていた2人の小学校の女性教師と知り合いになりました。彼女たちは夏休みを利用して中国で英語を教えていたのです。その話を聞いて、私にも何かピンと来るものがありました。実は、私は若い頃から「アジアの一角で人の役に立ちたい」という夢を持っていたのです。日本語教師という道を選んだのもそれが理由なのですが、アメリカが生活の基盤となった1978年以降は日々の生活に追われてしまい、若き日の情熱が冷めてしまっていたのです。また、「アジアで何かをしたい」という夢を果たそうとしても、今の私には妻も娘もいるわけですから、単身でアメリカ国外に出て長期滞在しながら働くことは不可能だと思っていました。でも、「いつかは…」という思いが心の隅に眠っていたのでしょうね。夏の期間のみであれば、アジアの何処かで日本語を教えることが実現できるかもしれないと感じたのです。

サンディエゴへ戻ると同時に、日本語教師を求めているアジアの地域を探し始めました。中国やタイなど候補地は数カ国かありましたが、日本語学習者の人口比率が最も高い国がモンゴルであることを知り、自分はこの国へ行ってみたいと強く感じるようになったのです。


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早朝に放牧される牛の群れとゲル。大草原の国モンゴルを満喫する。 (2004年)

—— ボランティア活動を開始するまでの経緯は。 

日本にはモンゴルでの日本語教育を支援する政府機関があります。その所長宛に「夏の期間にボランティアの日本語教師を受け入れてくれる学校を紹介して欲しい」という依頼のメールを送りました。ところが、直ぐに「希望に添う学校はない」との返事が届いたのです。モンゴルはアメリカと同様、6月中旬から8月まで夏休みです。元来、モンゴル人は遊牧民族ですから、夏になると生活の場所を移動するのです。また、両親を手伝うことが何よりも大切と考えるモンゴルでは、子供たちは夏休みに勉強をする必要が無いそうなのです。「別の時期に長期休暇が取れるようなら、再度連絡を」と一度は断られましたが、夏季以外に長期休暇を取ることなど不可能なので「何とか受け入れてくれる学校を探して欲しい」と必死に頼みました。それから1カ月後の昨年1月に「新モンゴル高校で、モンゴル初のサマースクールが開催される」という連絡を受けて、早速高校の校長であるジャンチブ氏を紹介してもらったのです。その後は直接ジャンチブ校長と連絡を取り合い、とんとん拍子に話が進みました。しかし、時を合わせたようにサーズの猛威が北にも拡大。北京から内モンゴルジ自治区へ、そして5月の初め、ついにモンゴルの首都ウランバートルと拡大。その時は、正直、もうダメかと思いました。この影響でモンゴル行きを何人かから反対されました。その後、サーズが落ち着きをみせ始めたこともあり、予定通り決行しましたが、モンゴルに行って聞いたことですが一時期、学校など人が集まる所が閉鎖、夜間外出禁止や外出時のマスク着用などの処置がとられたとのことです。


—— 初めてモンゴルを訪れた時の印象は。

53_2.gifモンゴルの情報はインターネットでしか入手していなかったので、アメリカを発つ前は少々不安でした。大草原と遊牧民というイメージだけでした。でも実際には、日本人と顔が似ている人種ということもあって、直ぐに生活に馴染むことができました。滞在していたウランバートルも想像以上に大きな都市でした。ただ、日本やアメリカのように衛生観念が発達しておらず、来客をもてなす際に1つの器に酒を盛って皆で飲み回した時は少々驚きましたが、カルチャーショックを受けることもほとんど無く、充実した日々を送ることができました。


——若い頃からアジアに興味を抱いていた、その理由は。

一人っ子だったせいかもしれませんが、幼少の頃は人付き合いが苦手で、一人で読書をしたり、自然を相手にして遊ぶことが好きでした。でも、そんな自分から脱却しなくてはという思いがあり、いつの間にか冒険や探検というものに興味を持つようになりました。中でも、シルクロードには強い関心を抱いていました。人間が壮大なロマンを描いて、あの西域に求めていったものがある̶̶ そう思うだけで駆り立てられていましたね。この頃からアジアに惹かれていたのかもしれません。気付いた時には、アジアを旅する日々を夢見ていました。


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たくさんの露店が軒を連ねるウランバートルの街頭。 (2004年)

—— 初めてアジアを訪れた体験を話して下さい。

それは25歳の時でした。それまで一度も海外旅行の経験が無かったのですが、香港、ミャンマー、バングラディシュ、インドなど、バックパック一つで半年間に渡る一人旅に出掛けました。「自分にできる何かを見つけられるだろう」と自信を持って日本を発ちましたが、実際には現実の厳しさに打ちのめされてしまいました。当時はバングラディシュとパキスタンが終戦を迎えて間もない頃で、私の目の前で栄養失調の人が倒れる場面に出会うことも珍しくなく、建物の至る所に生々しく弾痕が残っていました。また、大通りの両側では、戦争で手足を失った人が慟哭 (どうこく) に近い声を上げて泣いていました。それは地獄の中にいるような光景でした。インドでも幼児から老人まで、信じられないほど大勢のホームレスを目にしてきました。こうした旅を続けているうちに、自分の無力さを痛感させられてしまったのです。「自分にできることは一体何なんだ?」̶̶ この問い掛けを何度も自分に投げ掛けて、やっと見つけ出した答えが「教育」という道だったのです。教師になるのは今からでも遅くないだろうし、日本語教師なら自分に向いていると思えたのです。そして、日本国内にこだわらず、自分に合った大学院を探し始めて辿り着いたのがサンディエゴ州立大学 (SDSU) でした。


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モンゴルの民族衣装デールを着てご満悦の高橋さん。 (2004年)

—— 日本語教師として大切なことは。

SDSUを卒業して直ぐにサンディエゴで日本語教室を開設し、同時に市内のカレッジや高校でも日本語を教え始めました。教師になりたての頃は試行錯誤の状態で余裕などありませんでしたから、とにかく授業をこなしていくことに必死でした。ですから、生徒には退屈な授業になっていたはずです。経験を重ねるうちに「生徒の興味を引く授業でなければ、彼らにやる気を起こさせることなどできない」という当り前のことが分かってきました。そのためには、生徒と私自身が楽しいと感じるコミュニケーションを通して授業を展開しなくてはいけません。今では、常に笑顔を絶やさず、授業中に冗談を交えながら生徒と一緒になって楽しんでいます。これはアメリカに限らずモンゴルでも同じです。生徒が理解できない日本語はジェスチャーを使って表現するなど、何かしら工夫を取り入れるようにしています。授業中は自分の全エネルギーを使い果してしまうので、1時間半の授業が終了すると抜け殻のようにグッタリしてしまうんですよ (笑)。


—— モンゴル、アメリカ、日本の生徒を比較して違いを感じる点は。

モンゴルの高校生の大半が大きな夢を抱いています。大統領、政治家、または医者になってモンゴルを救いたいと真剣に考えています。できれば奨学金を得て日本の大学へ留学し、卒業後は身に付けた知識と技術を母国へ還元したいとの意欲を持っているので、全員が必死になって勉強をしています。これほどまで真剣に母国の将来を考えている高校生がアメリカや日本にはどのくらいいるだろうか? 豊かな国であるアメリカと日本で生きている子供たちが、決して幸せと言えないのは何故だろう? モンゴルの子供たちは目がキラキラと輝いている。僕たちは彼らから学ぶことがあるはずだ̶̶と思わずにはいられません。

また、モンゴルは家族の絆が非常に強い国であると感じます。子供たちに尊敬する人は誰かと尋ねると、「自分を生んでくれた両親」や「自分のために働く両親」という反応が即座に返ってきます。そして、事あるごとに家族や親戚が団結してお互いを助け合います。決して裕福な国ではありませんが、モンゴルを訪れると古き良き時代の日本を見ているような気がするのです。


—— アメリカとモンゴルの架け橋となった今、感じていることは。

今後もUSDと新モンゴル高校の生徒との交流を深めていきたいと思っています。以前、両国の生徒に「私の家族」という作文を書かせて、それを交換させたことがありました。地理認識も及ばないほど遠く離れた国で暮らしている若者同士が、同じ日本語を学んでいるという共通点から互いの興味を引いたようなのです。この交流が刺激となり、両国の生徒の日本語に対する学習意欲が今まで以上に沸き上っている様子でした。このように、何らかの形で2国間の交流を続けていきたいですね。


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「新モンゴル高校」のサマースクールで、毎年ボランティアとして日本語を教えている。

——今後の抱負を聞かせて下さい。

チャレンジ精神を忘れずに人生を歩んでいきたい。歳を重ねていくと安定した生活の心地良さに慣れてしまい、新たなチャレンジを恐れてしまいがちです。でも、それは限られた人生を無駄にしているような気がしてならないのです。モンゴルへ行こうと決意したのも自分自身へのチャレンジでした。実は、以前に中国を旅行した際に食事が合わず、身体を壊してしまったことがありました。同じ経験を繰り返してはいけないと、モンゴル行きが決まってからは毎日ジョギングと体力トレーニングを続けて、肉体と精神の両面を鍛え上げていきました。お陰でお腹も随分へっこみ今までのズボンがだぶだぶになりました。現地の高校生と一緒にサッカー等をし、生徒達から何度も「先生は若いね!」とも言われました。でも、もう体力的にあまり無理はできないとも感じました。張り切りすぎと慣れない食事等もあって少し体調を壊しました。

今後も毎年モンゴルを訪れ、新モンゴル高校で日本語を教えていきたいと思っています。昨年は「どうして夏休みに勉強を?」と疑問を抱いた保護者が多く、サマースクール参加者は30名ほどでした。ところが、本年度の日本留学テストに合格した生徒7名のうち6名が昨年のサマースクール参加者だったという事実から、生徒も保護者も考えを改めるようになったのでしょう。今年は何と100名もの生徒がサマースクールに参加しました。こうしてモンゴルを訪れて、300人、400人とできる限り多くの若者と触れ合っていきたいと思います。そして、モンゴルの有能な人材として、各分野で活躍する教え子の輝かしい成長を目にする日が訪れることを楽しみにしているのです。

モンゴルでの日本語教育を通じて、私と生徒たちは互いに「希望」という言葉で繋がったような気がします。ヴィクトル・ユゴーの作品の中に「大海原より広いものは大空である。その大空より広いものは人の心である」という一節があります。僕たちは宇宙の中のちっぽけな存在に違いない。だけど、卑小な存在でも内面には無限大の可能性を持っているから、希望が生まれてくると思うのです。自分にできる亊というのは非常に限られています。だからこそ、今の日本語教師という立場から、少しでも夢と希望を若い人たちに与えることのできる自分でありたい̶̶そう思いますね。
 

高橋 晃 (たかはし あきら) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

サンディエゴ大学日本語教師。ジャパニーズ・ランゲッジ・クラス 主宰。1947年北海道生まれ。法政大学通信教育部を卒業後1978年に渡米。1983年サンディエゴ州立大学にて美術修士号を取得した後、日本語教室 ジャパニーズ・ランゲッジ・クラスを開設。サンディエゴ大学にて日本語教師も務める傍ら、2003年よりモンゴルの高校で日本語指導を行うボランティア活 動を開始。今年から奨学基金を設立するなど、モンゴルの教育支援活動に意欲的に取り組む。現在、夫人と共にサンディエゴ市内ティエラサンタに在住。
※モン ゴル奨学基金のお問い合わせは Japanese Language Class (4683 Mercury St., #H, San Diego CA 92111 / 858-268-9613) まで。ご協力の際は小切手の受取人を Mongol Education Fund として Japanese Language Class 宛てにお送り下さい。



(2004年11月16日号に掲載)