Friday, 29 March 2024

ゆうゆうインタビュー 生澤美子

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コスチュームデザイナーの仕事内容を具体的に教えて下さい。

舞台やコンサートの衣装を作る仕事なのですが、先ずクライアントの希望を聞いて、デザインのイメージをデッサンします。その原画を見せて先方が気に入ってくれたら、細かいデザインを決めて、生地を選んで見積りを出します。衣装のデザイナーはコストの計算もします (笑)。ですから、コスチュームデザイナーは“格好いい”イメージが先行している反面、実は地味な仕事と言えるかもしれません。衣装によっては自分で縫う作業もありますしね。

舞台の場合は、脚本が完成した段階で監督さんたちと打ち合わせを行います。芝居の時代背景、風景、シチュエーション、役の特徴などを考えて衣装のイメージを描くのです。このプロセスを5回ほど繰り返します。つまり、デッサンを5回描き直すわけです。衣装のデザインが決定したら、色や生地などを決めて見積りを提出し、OKサインが出た後で仮縫いの生地で見本を作ります。そして、役者に試着させて問題が無ければ、本物の生地で本縫いの作業に入ります。コンサートの場合も舞台と同じプロセスを踏みますが、スタイリストから渡された衣装のイメージ写真やラフの絵を基にして、デザインを考えて見積りを出します。この場合、仮縫いのプロセスはほとんど省いて、原画からすぐに本番の縫製作業に入ります。

スタッフの力を結集させて一つの物を作り上げる仕事なので、舞台やコンサートが成功する度に達成感に満たされます。「この仕事をしていて良かった」 と思える瞬間が数限りなくあるのです。



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6歳のスナップ。4歳違いの弟と一緒に。
——コスチュームデザイナーを志した理由は。

10代後半の頃、広告制作に携わるグラフィックデザイナーになりたいと思い、高校に在籍しながら夜間のアートスクールに通っていました。東京芸術大学に入学したかったのですが2浪して断念。当時、デッサンや粘土で様々な形を作る模刻を毎日のようにこなしているうちに、人間を描くことが一番好きだと気付いて、「今度は“人間の外側”を作ってみよう」 と思い立ち、文化服装学院のアパレルデザイン科に入学しました。一般人が着用するアパレルよりも衣装デザインに興味を抱いたのは、衣装には夢があるからです。思いっきり大胆なものがデザインできる仕事であり、そこに魅力を感じたのです。

私の友達にダンサーの妹さんがいて、その妹さんのコスチュームを作ったのが初作品でした。それが演出家やダンスチームの人たちに好評で、「私のコスチュームも作ってほしい」と注文がどんどん入ってきたのです。それが縁となり、学院に通いながらバレエ団やダンサーのコスチュームを作る仕事を手掛けるようになりました。

でも、「プロでもない自分がコスチュームを作っていいのかしら…。ダンサーが動きやすいデザインとは?」 という疑問が湧いてきて、あるバレエ団の先生に相談したところ、「ダンスコスチュームや衣装を専門に制作している会社に入社して、自分を磨き直してみたら」 と助言を頂いたのです。そこで、求人広告で見つけた大手ダンス・バレエ用品総合メーカー社のチャコット (株) に入社。1年の見習い期間を経て、2年目から正式にコスチュームデザイナーになりました。


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ハワイへの家族旅行は中学生時代の思い出。母方と父方の両祖母、お父様に囲まれて。
—— アートに興味を抱いた時期は。

母方の祖父が染色画家ということもあり、母も着物の染色教室を開いたりしていました。母と祖父の影響ですね。私が塗り絵をして遊んでいた3歳頃に、祖父から 「人間の髪の色は黒だけじゃない。よく見ろ」 と言われて塗り直させられたことがあり、その頃から絵画を始めとするアートに興味を持ち始めました。でも、母が染色の仕事を辞めて父と飲食店経営を始めた頃には、自分を取り巻く環境が別世界になってしまったと感じられ、暫くは抵抗感がありましたね。私は絵を描いたり、物を作ったりすることが大好きなんです。文化祭や体育祭の出し物をクラス全員で作る作業はとても好きでした。この頃の経験から、皆で一つの物を創作していく作業に喜びを感じる自分を形成していったのです。


—— 渡米した理由は。

チャコット社でコスチュームデザイナーとして働いていた頃、舞台やコンサートのリハーサルに立ち会うのも私の仕事でした。そんな時は明け方5時までリハーサルの現場に居ることもあり、別のクライアントのリハーサルが同じ日の朝に予定されている時には24時間不眠不休で仕事をしました。睡眠時間が1日平均3時間という生活を4年間 ̶̶̶。それは大変でしたが、信頼できる仲間に囲まれて充実していた日々でした。でも、常に疲労困憊 (こんぱい) していましたね (笑)。

そんな中で、来日した外国人のデザイナーさんたちと出会う機会があり、自分のデザイナーとしての生活信条、デザインに関する考え方が変化していきました。大型アミューズメントパークのパレード衣装を担当していた時、アメリカから大勢のデザイナーが来日し、今まで見たことのなかった様々なデザイン画を目にしたのです。それらは実にクリエイティブな原画やサンプルでした。しかも、仕事に打ち込むスタッフ全員が楽しそうに見えたのです。正直に言うと、当時は短い睡眠時間を強いられる生活が続いていたこともあり、仕事に楽しみを感じる余裕が無く、そんな彼らを見て新鮮に思えたのです。例えば、私が日本人のクライアントに 「これはちょっと難しいですね」 と言うと、「無理なんですか」 とネガティブな反応でコミュニケーションが閉ざされるのに、アメリカ人のスタッフからは「これは大変だからヤめちゃおう。それなら、こうしたら」 とポジティブな反応が返ってくる  ̶。しかも、皆が笑顔なんですね。

「優れた作品はこんな環境から生まれるのかな」 ̶̶̶ そんな思いから、アメリカへ行きたいという気持ちが強くなっていきました。世界を舞台にもっと見聞を広めたいという思いを胸に、渡米前の2年間はひたすら貯金、貯金の生活でした。昼食を抜く生活に我慢をしたり、おにぎりやカップラーメンだけを口にするという倹約生活を続けました。でも、空腹で倒れそうになってしまい、この方法は長続きしなかったけど… (笑)。


——渡米の時期は。

2003年2月でした。渡米先を選ぶ時に、先ずは安全な場所に行こうと思ったんですね。オハイオ州などの田舎にしようと ̶̶̶。でも、まだ29歳なのに、刺激の無い所でのんびりしている場合じゃないだろうと思い直し、ニューヨークを選びました (笑)。世界を動かす情報の発信地、最先端の時代の波を送っている震源地に行ってみたい、世界の中心を見てみたいとの思いが突き上げてきたのです。でも、英語は話せないし、ホームステイしていた界隈の治安もあまり良くなかったので、初めは怖かったですね。先ず、英語学校に3か月間通いました。ホームステイ先のホストマザーはギリシャ人で、ルームメイトはトルコ人。英語学校のクラスメイトは台湾人、韓国人、ブラジル人と国際色豊かな環境の中にいて、「今までは日本人の友達しかいなかった」 と改めて思いました。


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日本で一緒に仕事をしていたダンサーのマヒ (写真左) と NY の舞台 『アイーダ』 で再会 (生澤さん=中央)
—— ニューヨークでは英語の勉強に専念していたのですか。

時間が十分にあったので、英語の勉強だけでなく、ニュージーランドで開催する由緒ある衣装デザインのコンペ The Montana World of WearableArt Awards に応募しました。受賞は逃しましたが、最終審査に残ったことから、ニュージーランドの美術館 (the World of WearableArt and Collectable Cars Museum) に私の作品が展示されています。作品は 「人魚」 をテーマとするドレスなのですが、友達の「人魚になってみたい」 という願いを叶えてあげたいとの一心で完成させた作品でした。自分を印象付ける作品として渡米前に作ったドレスであり、このコンペに応募する目的の作品ではなかったのですが…。

人魚の鱗 (うろこ) は、プールで使われるビートバンの材料である発泡ウレタンフォームをヘアドライヤーに似たヒートガンで柔らかくして、一つ一つ手で作りました。ベルベットに近い伸縮性のあるロベットの生地にこの鱗を全体的に縫い付けたのです。時間が掛かりましたが、本物の人魚のような仕上がりになりました。尻尾の部分は透明感が出るようにオーガンジーを使用。ピアノ線や帽子の材料によく使われるホースヘアや、キラキラ光るグリッターのパウダーをボンドで溶かして絵の具の代わりに鱗を描いたり、いろいろな材料を駆使して作り上げた豪華なドレスでした。完成時には自分の作品を初めて作った喜びで一杯になりました。

今年もこのコンペに応募したところ、ノミネートされました。今度こそ受賞したいですね。今年は 「天使」 がテーマです。コンペが終了するまでは出展作品のお話しはできませんが、今回のドレスもユニークな生地と高い技術を駆使した作品です。


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ニュージーランドのコンペに去年出展した 「人魚」 のコスチューム。ニュージーランドの美術館で展示中。
—— 現在の活動は。

ニューヨーク滞在中にブロードウェイの舞台を観に行き、以前に日本で一緒に仕事を手掛けたハワイのダンサーが踊っているのを偶然目にしたのです。ステージ上の彼を見た瞬間に 「私もアメリカに根を下ろして頑張ってみよう」 という強い思いがみなぎり、オレンジ郡に住んでいる知人の日本人衣装デザイナーの方に仕事紹介の依頼を込めた手紙を書いたのです。それが機縁となって2003年10月からオレンジ郡に来ています。
オレンジ郡ではそのデザイナーの方の紹介で、ホームステイ先から、サウス・コースト・レパートリーで開催された 『シラノ・ド・ベルジュラック』 の舞台の仕事までお世話になりました。その仕事から人脈が広がって、オレンジ郡で開催されたシェイクスピア祭での『空騒ぎ』 や 『マクベス』 の舞台に携わったり、日本から撮影に来た浜崎あゆみのダンサーコスチュームの衣装を担当したりと、短期間で数々の仕事に就く幸運に浴しています。『シラノ・ド・ベルジュラック』 は渡米後に関わった初の大舞台でした。1640年のパリを舞台にしたストーリーで、男物の17世紀のジャケットを制作したのですが、日本では女性の衣装を担当することが多かったので、これも新鮮な体験でした。周りの皆さんに助けて頂きながら素晴らしい衣装が完成しました。ここアメリカでも衣装を作る喜びを体験できることに感謝している毎日です。


—— 渡米後に苦労したことは。

言葉の壁には苦労しました。「このドレスをどうしろというの?」「どこを解 (ほど) いてほしいのかな?」 という具合に、相手の簡単な要求が聞き取れず、最初は大変でしたね。私に仕事を与えてくれた人に申し訳ない気持ちで一杯でした。英語は学校で習っているほかに、お気に入りの映画を何度もDVDで観ながら勉強しています。『魔女の宅急便 (“Kiki's Delivery Service”)』 と 『千と千尋の神隠し (“Spirited Away”)』 はそれぞれ50回以上観ましたね。両作品とも主人公が知らない街に行って奮闘するというストーリーなので、主人公に自分を重ね合わせて感動しています。何度も何度も同じ映画を観ているので、ホストマザーが呆れています (笑)。でも、お陰様で英語が上達しました。ほとんど全ての台詞を暗記していますからね。


—— アメリカで学んだことは。

両親が教えてくれたことの意味がアメリカに来て分かったことかな。「頑張っていれば、周りも応えてくれる」ということ̶̶̶。声に出して意見を言えば、多くのアメリカ人が応えてくれることを知りました。頑張った分は必ず結果が出るという実感があります。その頑張りを積み上げていけば、大きな結果が出せる国なんですね。日本で一人暮らしをしていた頃は1日中誰とも話さない日もありました。アメリカではそういうことがありません。知らない人同士でも、目が合ったら微笑んで 「ハーイ!」 と声を掛け合ったり、会話を交しますよね。アメリカ人は精神的に余裕があると思います。事あるごとにサンキューカードを送る習慣も「素敵で温かいな」 と 思いますし、私もよく書いています。


——座右の銘は。

オレンジ郡の英語学校に通い始めた頃、周囲の学生さんたちとの年齢の差を感じてしまった時に、ホストマザーで友達のベティさんに教えてもらった言葉があるんです。それは “It's never too late to start over.”。ベティさんには3人の娘がいて、その中の1人が離婚した後に38歳で大学の医学部に入学し直したんですね。しかも彼女は、卒業式に総代で挨拶するほどの優秀な成績を収めたのです。その挨拶の際に 「遅すぎることはないから頑張りなさい - と励ましてくれた母の言葉を心の支えに今まで努力してきました」 と言ったそうです。娘に贈った言葉を私にも授けてくれたんですね。「人間に遅すぎることはないのよ。美子は若い子たちに負けないで頑張って」 とアドバイスしてくれて̶̶̶。これが私の座右の銘になりました。一生、大切にしていきたい言葉です。


——コスチュームデザイナーとして幸せを感じることは。

好きなことに夢中になりながら、世界を共有する仲間を得たことですね。「私はこういう衣装を作っています」 と話す度に、どんどん仲間が増えていきます。この道を歩んでいなかったらアメリカで生活していないだろうし、人種を越えた仲間の輪も作れなかったでしょう。あらゆる意味を含めて、私はこの仕事を選んで良かったと思います。

自分が手掛けた衣装を着た俳優さんたちが観客から拍手を浴びている時、私も舞台の袖で感激の涙を流しています。舞台衣装にも拍手が贈られていると思うと本当に嬉しいですね。ニュージーランドのコンペの時も、舞台上の私の衣装を見ながら観客が歓声を上げている姿を目の当りにして、受賞はしなかったものの 「私の作品を綺麗だと感じている人がこんなに大勢いる」 という実感は何にも替え難く、心の底から感動しました。この時、会場に響いた 「オー」 という歓声がグラデーションしていたのです (笑)。


—— 将来の夢は。

今まで知り合った仲間全員と舞台を作ることができたら最高!と思っています。観客が舞台を観て幸福になれるような、ステージから力強いメッセージを送って 「私も頑張ろう」 と奮い立たせるような舞台をね ̶̶̶。

日本の作品では、舞台効果としてのアイデアだとは思いますが、何かを腐らせた物を壁に飾るとか、茶色などの暗色を多用するなど、陰鬱なイメージがステージに渦巻いています。勿論、それが秀逸な作品だったりもするのですが、ネガティブなメッセージを際立たせたアートが日本には多過ぎるような気がします。

私は悪役の衣装をよく作っていて、物凄い迫力に満ちた1品が完成することもあるのですが、そんな時に思うのです。むしろ、悪役が着る衣装を作る方が簡単じゃないかと ̶̶̶。美しい衣装、つまりポジティブなメッセージが込められた衣装を作る方がはるかに労力を要するのです。人を感嘆せしめる衣装の創作は難しいだけに、成功すれば自分の力量を伸ばせることになります。その意味でも、私は 「綺麗なもの」 を作り続けていきたいと思っています。私の作品のコンセプトは「人が見て幸せになるもの」。今後もこの方針を念頭に置きながら衣装を作っていきます。

ニュージーランドのコンペは海外活動のスタートラインなので、これからも毎年挑戦していきます。50年後に自分の出展作品集を出せたらいいな̶̶̶ と思います。それが夢ですね。



生澤 美子 (いけざわ よしこ) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1973年生まれ。東京都出身。文化服装学院を1997年に卒業後、大手ダンス・バレエ用品総合メーカー会社チャコット (株) に7年間勤務。大型アミューズメントパークのパレードコスチューム、多数の有名歌手のコンサート用衣装、国民体育大会や長野パラリンピックのユニフォー ム、バレエ団やミュージカル舞台の衣装制作などに携わる。2003年に渡米後、独立して浜崎あゆみコンサートのダンサー及びバンドメンバーの衣装や、オレ ンジ郡で開催された舞台 『シラノ・ド・ベルジュラック』 『空騒ぎ』 などの衣装作りで活躍している。現在オレンジ郡に在住。両親は日本で飲食店7店を経営。

(2004年11月1日号に掲載)