Friday, 19 April 2024

ゆうゆうインタビュー マーサ・W・ロングネッカー

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民芸国際美術館について教えて下さい。

この民芸国際美術館はバルボアパークを永久 (とわ) の住処として1996年8月8日に誕生しました。過去数十年間に世界中で開催されたイベントや体験を基にして設立されました。私は昔から日本を何度も訪れていますが、自らの勉強の目的だけではなく、アメリカのアーティストや学生を随行させたり、逆に日本からもアメリカへ連れてくることもあります。やがて、私は文化の相互交流には団体組織が必要であると実感したのです。そして1974年、今は亡き夫の協力により、世界の文化を通じて「民衆による芸術」(民芸) をより理解するという目的の非営利組織「民芸インターナショナル」を設立しました。1977年にはアーンスト・ハーン氏が手掛ける美術館をユニバーシティ・タウン・センター内に設立するという話が持ち上がりました。そして、陶芸家の濱田庄司氏 (1894-1978) と 河井寛次郎氏 (1890-1966) と共に民芸の普及に努め、1936年に東京民芸館を創設した宗教哲学者である柳宗悦先生 (1889-1961) の功績を受け継いでいく責務が自分にあると思いました。その時、私がやり残しているのは美術館設立であると感じていたのですが、日々の仕事に忙殺されている私にはそれを実現するほどの余裕はありませんでした。フルタイムの教授職に就き、夫と家族もいましたが、これは生涯最大の機会であると思い直し、そのチャンスに賭ける決心をしました。その挑戦は首尾よく軌道に乗って成長の一途を辿り、現在は100以上の文化から12,500種以上の素晴らしい民芸品を所有するまでに至っています。また、私達のコレクションは多数の書籍、ビデオ、写真によるレクチャーなどに及び、これらは世界の優秀な教育プログラムから補充されていて、私達の活動が終わりを告げることはありません。さらに、今年10月中にはもう一つの美術館をエスコンディドにオープンする予定です。


——民芸の本質とは何でしょうか。

人間が自分の全存在を表現するために生み出したものであり、人間そのものから生まれるアクションなのです。この表現が「民芸」と言われるようになりました。 「民芸」という言葉は、当時それを表現するのに適した言葉が英語にも日本語にも存在していないという理由から柳先生が創り出したものです。̶̶人間のアクションから誕生したものが沢山存在しているにも関わらず、相応 (ふさわ) しい言葉が無かったのです。フォークアート (身近にある生活用品や道具などに手で絵を描いていくクラフト) は民芸に分類されず、「民芸」という言葉は民衆の「民」と工芸の「芸」を組み合わせて誕生しました。この意味の深さを理解するには多少の時間が掛かりますが、人間の生活全体と深い関わりを持っているのです。̶̶精神の方向性と言えるのかもしれません。


—— 多くの人がフォークアートと民芸は同じものだと考えているようですが、実際はどうなのでしょう。

一般人の多くは間違った使い方をしているようですし、本来の意味は全く異なります! 英語で言うフォークアートは数え切れないほどの意味を含む言葉です。古い時代に発生した言葉かもしれませんが、未熟な職人の仕事を意味することもあります。一般的には、フォークアートは全て人間によるアートだと言えます。この見解は人々に混乱を招き、常に論議の的となるので、私達も同じ意味に捉えて欲しくないと思っています。私達が所有するコレクションの中にフォークアートも幾つかあります。初期のアメリカンキルトやウェザーヴェインなどは明らかにアメリカン・フォークアートに分類されます。依って、フォークアートの一部は民芸とも言えるのですが、民芸=民衆による芸術=は多くの意味を含んでいて、広く奥が深いものなのです。

民芸という言葉に聞き慣れていながら、正しく理解している人は少ないようです。それは、柳宗悦先生や濱田庄司氏の教えを完全に理解する機会が与えられていないからです。未だに、民芸は産業革命以前に生まれ、村民の仕事を意味するものだと思っている人がいます。民芸は今や素晴らしい作品として注目され、私達の国際美術館や東京の民芸館に収集されていますが、現代アーティストによる作品にも民芸と言えるものがあります。現在も過去も関係なく、如何に全体を表現しているかが重要なのです。


—— 民芸と柳先生との出会いについて話して下さい。

27_1.jpg第二次世界大戦後、柳先生と濱田庄司氏はイギリスの陶芸家であるバーナード・リーチ氏と共にセミナー開催のワールドツアーを実施しながら、若い職人を激励しつつ、心と体の繋がり、精神の表現による作品の製作とそれを使用することの重要性を提唱されていました。そして1952年12月、一介の大学生だった私は母親からのクリスマスプレゼントとしてロサンゼルスのセミナーに出席させてもらいました。柳先生らと会った私は今すぐ日本へ来て勉強をして欲しいと言われたのですが、夫も子供もいる上に仕事も抱えていた私には無理な話でした。それから10年後、サンディエゴ州立大学の研究休暇が与えられた私は、遂に日本で勉強するチャンスを手にしたのです。


——日本の印象は如何でしたか。

訪日は私の人生に大きな転機を与えました。日本を離れたくないという気持に囚われ、このまま暮らせたらどんなに幸せだろうと思いました。それは私の人生において最も素晴らしい経験でした。当初、日本へ直行するつもりでしたが、それでは重度のカルチャーショックに見舞われると心配した友人から「世界を周ってから日本へ行きなさい」とアドバイスされたのです。兄から500ドルを渡された私は『1日5ドルのヨーロッパ』という本を購入し、ヨーロッパ美術を直接目にする前に美術史の復習を始めました。そして、ギリシャ、トルコ、インド…など数カ国を訪問しました。トルコではトルコ人の友人を連れて不思議なサイキックパワーを備えた男性を訪ねました。私がリップケースのような物をその男性に手渡したところ、彼はそれに触れてハッと息を呑み、「今年3月の初めに、あなたは人生の中で最高の時期を迎える」と言ったのです。そして、その予言は的中しました。その時、私はこの世を支配する全能的な存在、外からの総体的なパワー、時間の結晶というものを感じていました…。

日本で私と会う約束をしている人は、何処 (どこ) でも何時 (いつ) でも誰もが時間に遅れることなく現れました! 同じ心を共有している人々と暮らしながらお互いを育んでいく生活
。誰もが受容力とオープンな心を持ち、それはとても素晴らしいことだと感じていたので、私は常にこの気持ちを持ち続けるようにしていました。まるで、何か呪文を掛けられて、異なるレベルのパワーが上手く機能しているようでした。

自宅に私を招待したり、好みの場所を案内してくれる人々の優しさに感動し、興味を抱くと同時に不思議でもありました。しかし、自分が歳を重ねていくうちに、当時の彼らは民芸に関わることになる私の運命について何かを感じていたのかもしれない
と思うようになりました。勿論、美術館を設立したのは大分後になってからですが、私にはこの仕事を続ける責任を持たされていると感じました。私は今でも頻繁に日本を訪れています。今年は既に2度も足を運び、12月には再び訪日する予定です。


—— 日本との往復は今後も続きそうですね。

一生続くでしょう。私の意志がある限りは!


—— 柳先生の教えは、現在でも受け継がれていると思いますか。

今後、さらに重要になっていくでしょう。彼が提唱しているのは真実の最高レベル・…全宗教の壁を越えることであり、人類が必要としているものに他なりません。柳先生の「人々が“一つ”になって生きていかなければ、心理的な破滅を招くであろう」という言葉の意味が私には分かります。今、私達は毎晩のニュース報道により、墜落、暴力、分裂の事実を目の当りにしています。その全てが、一つとなる方法を知らない人類がもたらしている悲劇なのです。


—— 民芸作品を見つめていると、触れたり、近づいてみたくなりますね。

27_2.jpgそうしてもいいですよ (笑)。全ての民芸の存在意義は触れられることにあり、そう感じたあなたは民芸の意味の深さを知ることができたのです̶̶それは、全てはエネルギーという真実です。人間はクオーク (粒子) から形成され、陶器も織物も全てエネルギーより誕生しています。茶碗を手に取ること、衣類を着ること、スプーンに触れること…人間と物体が接触することで統一された全体を生み出します。そして、全てに生命が宿っているのです。でも、醜いプラスチックスプーンや汚れた物体に触れた時、その人が繊細であればその人自身が破壊されてしまいます。ですから、民芸に限らず、見掛けが良く、質、感触、色彩が優れた物を機械によって製造することも現代においては重要なのです。


—— 次世代の民芸を担う人々をどのように育成していくのですか。

人々が直接に民芸を鑑賞できる機会を作ることで、次世代に受け継がれていくと信じています。音楽の世界では素晴らしい作品を聴き、食物であれば本来の味を試食する機会を持つことが大事です…私達が美術館を創設する理由というのも、世界の文化を通じて質の高い本物の民芸や人間の芸術を見てもらいたいと思っているからなのです。柳先生は「物を見るためには、心を空にしなくてはいけない」と言われました。ですから、美術館に教え子を連れてくる先生には、静かに作品を見つめながら、生徒さんの洞察力を高めるようにと話しています。

アートは美学的要素や美の一部に関係しています。産業革命以前は有用で美しい物が作られていました。今の私達は、有意義さや内容の豊かさとは何の関わりも持たない物を生み出す社会に生きています。この風潮は、全存在を創造する職人の精神とは異なります。真の民芸とは永遠に残る作品であり、同じ機能を果たさないまでも、それぞれが持つ美しさや品質は決して衰えることがありません。私の仕事は、作品を見て気持ちを共有できる人々に全てが向けられています。それを目指して頑張っていますが、残念ながら全ての皆さんに見て頂ける訳ではありません。しかし、美術館に長年携わり、多くの人々に気持ちを伝えて「民芸」という言葉の理解が深まったと信じています。


—— ある教授が「学生100人のうち、理解してくれる1~2人に向かって私は講義をしている」と言っていましたが、同じことが言えるのでしょうか。

同じですね (笑)。全くその通りです。誰もが理解しようと準備をしている訳ではないので、全ての人に受け入れてはもらえませんが、その中の数人でも理解してくれたなら、それだけで私達には価値のあることです。例えば「フリー・チューズデイ」 (入場無料の毎月第3火曜日) だけでなく、「クリスマス・オン・ザ・プラド」の開催期間中にも4,500人の方々に来場して頂き、皆が厳粛な雰囲気の中で作品をご覧になっていました、一緒に来た子供達も眺めていましたね。これは私にとって全てを意味します。1人の男の子が民芸の持つ意味を理解してくれた時のことを私は覚えています。彼が「ここに来て!ここに来て!」と呼び掛けると、竹のコーティングが美しい丈夫なインドネシア製の篭 (かご) の展示場所に友達が駆け寄って来たのです。その子は「見て!あの作品を見て!」と興奮して叫んでいました (笑)。


—— 現在は美術館運営に力を傾注されていますが、陶芸家時代と同じように充実したビジネスライフを過ごしていると思いますか。

エキシビジョン開催はとても楽しいものです。彫刻のように豊かな創造性が求められ、あらゆる作業を必要としていますが、実際のところ陶芸とは異なります。とにかく自分が中心にいるという感覚は素晴らしい! 美術館を創立する以前は…団体組織、募金、予算調整、81冊に上る著書、ビデオ作成、招待状の発送などの業務に携わっていました。25年間もフルタイムで陶芸を教えていましたので、陶器の製作と指導に明け暮れて毎日のように土に触れていました。陶器を仕上げるまでは精神統一を続けなくてはいけません。集中力が欠けてしまうと作品は完成しないのです。今でも時折1~2個を作ることはありますが、絵画と違い、思い立って直ぐに始められるものではありません。適量の土を用意し、その土を押し込んだ後にろくろを動かしながら余分な量を取り除いて乾燥させます。その後、着色してから窯で焼き上げるという手順を踏むので、決して簡単な作業とは言えません。暫く陶芸から離れていることを残念に思いますが、いつの日かその世界に戻りたいと思っています。


—— 陶芸への情熱は未だ冷めやらずとお見受けしました。

おっしゃる通りです。


マーサ・W・ロングネッカー 

民芸国際美術館創立者、兼館長。オクラホマシティで生まれ、生後9カ月でカリフォルニア州へ渡る。現在ラホヤ在住。芸術家、著者、職人、女性実業家であ り、サンディエゴ州立大学美術学部名誉教授を務める。カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校にて美術学士、クレアモント大学院にて美術修士を取得。 1955年より35年間に渡りサンディエゴ州立大学美術学部教授を務め、ギャラリープログラムや講師の指導に携わる。同氏の努力により1962年から世界 の民芸が注目されるようになり、1974年に民芸インターナショナルを創立。同氏の活躍はアメリカ公共放送プログラム (PBS) や美術に関する各ビデオの中でも取り上げられる。職人連合会、美術共同組合、世界工芸協議会、アメリカ博物館協会メンバー。また、サンディエゴ州立大学に よる最高栄誉金賞やライシャワー国際教育賞受賞を始め、数々の功績を残している。現在2冊の出版書の監修を務める傍ら美術館の発展活動に励んでいる。※民 芸国際美術館についての詳細はバルボアパークまたは www.mingei.org までお問い合わせ下さい


(2003年10月1日号に掲載)