Friday, 19 April 2024

ゆうゆうインタビュー 石井文子

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現在の仕事について教えて下さい。

アーバイン・バレー・カレッジで日本語と日本文化を教えています。アメリカのコミュニティカレッジですから、高校生から社会人まで、学生たちの年齢層も幅広く、趣味、キャリアアップ、チャレンジとその目的も千差万別です。ですから、焦点を絞って指導することが難しいのですが、4年制大学に編入するために必要な外国語として、日本語の知識と能力を取得させることに重きを置いています。一人でコツコツと試行錯誤を繰り返しながら指導してきましたが、気が付いたらもう20年という歳月が流れて、今では1学期に300人もの生徒が集まる満員御礼のクラスに成長しました。学部長の依頼により、3年前から「日本文化」のクラスも担当するようになりました。多くの学生に日本語を学ぶ動機を与えているのは日本のアニメや日本文化への興味ですね。また、日本語を身に付ければ就職に有利という点も学生にとってメリットとなっています。


——指導の方針と工夫について話して下さい。
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9歳の誕生日、右から2番目が本人
(1956年、自宅で)
 

外国語を覚えるには、その言葉をたくさん聞いて、話して、慣れることが大切ですので、授業の9割は日本語で行っています。教授法としては、ナチュラルアプローチ(母国語を覚えたように自然に習得する方法)やコミュニカティブメソッド(対話方式)などを採用していますが、最も大切なのは、自分の子供のように学生に愛情を注ぎ、親身になって接することだと思います。実際、難しい日本語を苦労して覚えてくれている生徒たちに感謝と尊敬の念を抱いて指導に当たっています。フルタイムの仕事を終えてから出席する学生もいますので、生徒の疲れが吹き飛ぶような授業を行うように心掛けています。ひらがな、カタカナ、漢字のカードを使った神経衰弱ゲーム、動詞の活用を訓練するカラーカード、右脳を刺激するフラッシュカード、「デートでは何をするの」と興味をそそる質問を投げかけたり、頭が働いていないと感じた時は 皆で立ち上がって体操をしたり、『ドレミの歌』や『メリーさんの羊』などを歌ったりします。せっかく私のクラスに来てくれたのだから、楽しく、笑って、歌って、ワイワイガヤガヤと皆で仲良く勉強する。これが私の授業方針です。


—— 渡米の契機について聞かせて下さい。

35年前、大阪万博で通訳の仕事をしていた時に知り合った米空軍パイロットと結婚して、カリフォルニアに渡ってきました。その後、夫の駐留に伴い、3年間ドイツで生活しました。しかし、度重なる夫の家庭内暴力に耐えかねて、8歳の娘と5歳になる息子を引き連れて、夜逃げ同然でアメリカに戻りました。命が縮むような思いをしましたが、幼い子供を抱えて生きていくために、カリフォルニアで必死になって仕事を探してオレンジ郡の法律事務所でフルタイムとして働き始めるようになりました。丁度、英語が母国語並みに話せて、日本語の読み書きができる人をその事務所で探していたのです。結局、離婚成立までに10年かかりました。養育費などの訴訟で最高裁まで行きましたから、莫大な時間と労力を費やしました。勿論、弁護士費用も相当なもので、今思えば一軒家が買えるほどの金額になっていたかもしれません。


—— 現在の仕事を志した経緯は。

法律事務所で働き始めて5か月が過ぎた頃、偶然手にしたアーバイン・バレー・カレッジのカタログの中に日本語クラスを見つけたのです。講師の名前が無いことを不思議に思って学校へ電話を入れると、開講したばかりで未定とのことで、急遽応募したところ採用されたのです。とはいえ、私には資格も経験もありませんでしたから不安と緊張で一杯でした。しかも、1日の仕事を終えてからベビーシッターを手配して、夜のクラスで教えるという分刻みのスケジュールが待っていました。しかし、人間の適応能力は驚くべきもので、副収入を得るために始めた日本語教師という仕事に、やり甲斐と生き甲斐さえも感じるようになりました。クリエイティビティを存分に発揮でき、自分らしさを活かせる醍醐味、そして、教育を通して生徒たちの人生に深く関わっていく仕事に次第に魅了されていきました。子供たちも私の手を離れ、自分には先生業が向いていると確信した1999年にカリフォルニア州立大学大学院に籍を置き、アジア研究の修士号を取得しました。その頃は、マツダのデータ分析アナリストとしてフルタイムの仕事を持っていて、昼間はオフィスワーク、夜はパートタイムのカレッジ講師、加えて大学院の勉強と、スーパーウーマン的なスケジュールをこなしていました。


—— 自分自身を評価できるアチーブメントとは。
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昭和11年に曽祖父の井上保三郎氏が私費を投じて創建した高崎観音の前で記念撮影。左から2番目が本人 (34歳、1981年)


我田引水で実に恐縮ですが、今春、南カリフォルニアの大学を対象に日本語のバラエティコンテストが開催されました。当校の生徒たちも参加して、寸劇、紙芝居、紙人形劇を披露したところ「アーバイン・バレー・カレッジは賞を総なめにしたじゃないの。やっぱり先生の熱の入れ方が違う」と、審査員の先生方にお褒めの言葉を頂きました。競技会に出場して数多くの賞を頂いてみると、今までの指導の成果が認められたようで、本当に嬉しかったですね。そして、小規模なカレッジにも関わらず、ユニバーシティに負けない学生数を誇る日本語クラスを担当していることが何にも替えがたい喜びなのです。「このクラスだけは休みたくない」「授業が楽しいから次のレベルも取るよ」「先生は私の日本人のママだ」なんて、涙が出てしまうようなことを生徒たちは言ったりするのです。


——同時通訳者としても活躍されていますが、英語をマスターする秘訣は。
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留学前の家族写真。 右が本人(18歳、1965年)


子供が幼かった頃は生活費を稼ぐために翻訳や通訳の仕事をしていました。今では、食指の動く内容のイベントにだけ顔を出して通訳のお手伝いをしています。同時通訳者と自称するにはおこがましいのですが、英語をマスターするには「英語圏の世界にどっぷりと浸ろう」という意志と覚悟がないと難しいのではないでしょうか。英語ばかりの環境に自分自身を置き、アメリカ人と積極的に交わり、意志の疎通を図る努力を続けることが大切です。日本語と英語は文法が全く違いますし、発音も子供の時から発声していないと難しい口や舌の筋肉の動きを要求されます。また、言語の勉強にはその文化を知ることが不可欠であるという認識を持つ必要があります。私はよく 「好きな歌を歌いなさい。美しい詩を暗唱しなさい」と学生たちにアドバイスしています。意味が分からなくても、自然に口に出るまで何回も繰り返すことが重要なのです。

しかし、英語はあくまでも、自分の意見や見解を述べるための手段にすぎません。言葉にする前に、相手に伝えたいものを自分が持っているかどうかを自問自答しなければなりません。それが無いと「英語を話すこと」自体が無意味になってしまいます。日本人の学生に「小泉首相が靖国神社に参拝するのはどう思う」などと質問すると、「そんなことを聞かれても分からないな」という反応が返ってきたりします。異論であっても構わないから「自分はこう思う」と主張できる意見を持ってほしいと思います。自分の言いたいことが胸の中に広がってきたら、それは英語であろうと日本語であろうと、自然と言葉になって出てきます。例え英語がたどたどしくても、一所懸命に話そうとすれば、その内容を聞いてコミュニケーションをしようとする人が必ず現れるものです。


—— アメリカでの異文化体験から得た人生訓は。
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アーバイン・バレー・カレッジ日本語クラスの様子 (2005年)


10代の頃からアメリカへの憧れを抱き続け、高校(光塩女子学院)がミッション系ということもあり、聖心女子大学セントルイス校(メリービル大学)に留学する機会に恵まれました。当時は『アラバマ物語』(“To Kill a Mockinbird”/1962)の映画が話題になっていて、アメリカの人種問題などを勉強したいと思っていました。今から40年ほど前のことです。1ドル=360円の時代で、留学には莫大な資金を要しましたし、女の子1人で渡米させることに両親の不安はいかばかりであったか…。しかし、この留学体験がアメリカで多くのことを学ぶ出発点となりました。

アメリカで得た人生訓の最たるものは「自由を手にするには犠牲と責任が伴う」ということでしょうか。アメリカ人は自由を保証する独立への義務と責任の厳しさをよく知っています。これは赤ん坊の頃から添い寝をして育てられる日本人と、一人部屋に寝かされて独立訓練を受けて育つアメリカ人との相違かもしれません。私の娘と息子も大学入学後は自分で仕事を見つけて働き始め、勝手にアパートを探して独立していきました。その親離れぶりは寂しいくらいで、アメリカに住んでいると 「甘え」が分かってくれる日本の温もりが懐かしいものです。

アメリカは多人種で構成されている社会なので、言葉に表さないと相手に意思が通じません。その中で生きていくためには、きちんと自分の意見を述べる必要があります。日本の阿吽(あうん)の呼吸はここアメリカでは望めません。日本人留学生に「言葉にしないと相手は分からないのだから、自分はこうしたいとはっきり言いなさい!」と口を酸っぱくして忠告しています。正直なところ、私も生まれつき無口で難儀しましたし、今でも苦労しています(笑)。



—— ご自身の人生に多大な影響を与えた人物は。

70_6.jpg20年前に外国語教授法をコーチしてくれたアーバイン・バレー・カレッジのジーン・エガーサ(Jeanne Egasse)先生ですね。スペイン語教師だった彼女は60年代ヒッピーの薫りが漂う女性で、大学で日本語コースを設置する計画を立てていたのですが、予定していた先生が急に帰国してしまい、偶然に現れたどこの馬の骨とも分からない私を雇ってくれたのです。採用の翌週から授業開始ということで、私は週末に子供たちを連れてジーンの自宅へ伺い、教授法の特訓を受けました。しかも、彼女自らが私のクラスを履修し、授業終了後に反省会まで開いてくれたのです。週末はジーン宅を訪ねるという習慣ができ、20年の歳月が過ぎた今でも子供たちは彼女のことをよく覚えています。あの時、ジーンと巡り合っていなければ、私は少し英語が上手く話せるだけの「唯のオバサン」になっていたと思います。


—— 座右の銘は。

「意志あるところに道あり= If there is a will, there is a way.」。やる気があれば何でも実現できます。私は本当にそう信じています。そして、解決法は向こうからやって来ます。以前に『神との対話』 ("Conversation with God")という本を読んだのですが、その中に「自分が言葉に出さなくても、考えているだけで物事は成就する」と書かれていたのです。その文章には非常に共感しましたし、長年の疑問が解けた感動を覚えました。それを裏返すと、行ぎょうじゅうざが住坐臥から考え方に至るまで、人間の道を全うしたものでないといけないということです。これは「言うは易く行なうは難し」です。


—— 将来の夢を話して頂けますか。
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左から娘ココさん、文子さん、息子ウィルさん (1995年)


一人でも多くの学生さんに味わい豊かな日本文化を紹介していきたいと思っています。外国で暮らしていると、日本語の美しさや意味の深さに気付かされます。この素晴らしい日本語をアメリカ人だけでなく日本人にも伝えていきたいですね。特に、今の若い日本人は日本語を磨く努力を疎かにしている気がします。アメリカで日本語を勉強している高校生が、むしろ正しい尊敬語や謙譲語を知っていたりするものです。

「言葉」は「言う葉っぱ」です。葉っぱは生きています。麗かな春に新緑の芽が萌え出でて人々に活力を与え、日照りの暑い夏には日陰を作り、感傷の秋になれば紅葉で寂しくなった気持ちを癒し、そして散り、凍てつく冬の充電期を迎えます。太陽を浴びた葉っぱから栄養を取り込んで木は生きています。こんな短い「言葉」という文字の中にも豊潤な意味が息づいているのです。そして、言葉は言霊(ことだま)です。世界広しといえども、そして無数の言語があれども、これは日本語だけが持っている霊的な繊細さではないでしょうか。現代日本から失われつつある日本語の瑞々しさを、皆さんに再認識して頂きたいと願っています。

美しく意味深い日本語を学んだアメリカ人が日本を旅した時、その魅力的な響きで日本人に語りかけていけば、逆に日本人が母国語の粋(いき)に気付いて、もっと言葉を大切にしていくのではないか… そんな夢を見ているのです。


石井 文子 (いしい ふみこ)

アーバイン・バレー・カレッジ 日本語/日本文化教授。1947年2月10日群馬県高崎市生まれ。聖心女子大提携のメリービル大に留学後、国際基督教大、カリフォルニア州立大ロングビー チ校大学院卒。大阪万博で知り合った米空軍パイロットと結婚して渡米。夫の駐在先ドイツで暮した後、離婚を機に帰米。1985年ロサンゼルスの法律事務所 に勤務しながらアーバイン・バレー・カレッジにて日本語を教える。2003年に勤続16年のマツダ・ノースアメリカ(MNAO)を退職して教職に専念。日 英同時通訳者としても活躍。現在オレンジ郡アーバインに在住。


(2005年9月16日号に掲載)