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サンディエゴ小史(3)〜 サンディエゴ伝道所 〜
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サンディエゴ伝道所の開設 (1769) は宣教師と原住インディアンの平和な共存時代を作り上げた
セラ神父によって1769年に建てられたサンディエゴ伝道所(Mission San Diego de Alcala)は、当初、プレシディオの敷地内にあった。現在のミッションバレーの地に移ったのはそれから5年後のことだ。プレシディオの東側に伸びるサンディエゴ川に沿った渓谷の一帯は原住インディアン、ディエグェノス族の居住地だった。
この移転によって、農作物栽培の水源確保が容易になり、加えて神父たちがインディアンと接触を持つ機会も多くなる。ところが、インディアンはこの伝道所移動に対して友好的な反応を見せなかった。そして遂に伝道所を焼き払い、宣教師1人を殺害するという暴挙に出る。この事件で、神父たちは再びプレシディオに引き返すのを余儀なくされた。
インディアンの理解を得たのはそれから数か月後だった。再びサンディエゴ伝道所が同じ場所に建てられ、インディアンの中にはかつての自分の行動を恥じ入り、洗礼を受けて伝道所内で生活を始める者も現れた。
伝道所が再建されてから数年後、セラ神父たちとインディアンの共同作業によってサンディエゴ川にダムを造る工事に成功する。それは天然の岩石を積み上げた簡単なダムだった。1807年、この岩石ダムに水路を付設する作業が始まり、8年後に完成。これによって、より機能的に水を利用することが可能になり、穀物の収穫が増えて充実した布教時代を迎える。
入植当初の牧牛、羊、ヤギ、馬の数は僅かだったが、19世紀になると群生するまでになった。伝道所の周囲にはブドウ畑、オリーブの果樹園、穀物畑が作られ、開拓された総面積は58,000エーカーもの広さを誇るようになる。
入植者の使命が現住インディアンへのキリスト教布教にあったのは勿論だが、のみならず「文明の教化」という役割も果たした。
インディアンは農作物を栽培する手順を覚え、道具や衣類を作る技術を身に付け、日干しレンガを土から作り出したり、石膏を石灰釜で焼き固める方法を習得し、建築用資材を産み出すようになった 。セラ神父らは、インディアンが自給自足の技術を十分に備えたのを見届けて、よく耕された土地を彼らの元へ返した。
病院と学校も創設された。1812年の地震で教会の一部が損壊したこともあった。この時代はインディアンにとって「学び」の時代だったと言えるだろう。物心両面で入植者と原住民に安定をもたらした豊饒な共存時代は半世紀ほど続く。
この時代を描写したリチャード・パレード(Richard Pourade)の『鳴鐘の時』("Time of the Bells")からいくつか文章を拾ってみよう。
「日課は鐘の音と共に始まる。遠く山の頂きから深い渓谷に至るまで、その神聖な響きはミッションバレー一帯に伝わっていく。セラ=ポルトラ隊が創設した伝道所には2つの鐘がもたらされた。1つは祈りのために、そしてもう1つは生活用として時を知らせる目的で備えられた。やがて、その鐘の数は増え、あるミッションでは8個の数に至った。鐘の音はインディアンに祈りと仕事の時を告げ、ある時にはその日の吉凶の報せとなって人々の耳に届いた。インディアンの誰もが誇らしげに鐘を撞いた。・・・布教時代が終わりを告げ、神父らが伝道所を去った後でさえも、荒廃した礼拝堂で誰かが鐘を撞く姿が毎日見られた」
1823年までにサンディエゴからサンフランシスコに到る地域で計23の伝道所が建てられる。サンフランシスコまでのこのルートは「エルカミノリアル」(El Camino Real=王の道)と呼ばれた。
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