Two of the real heroes from the 442nd Martin L. Ito (C-Company) and Jimmy Matsumoto (K-Company) along with the cast of“Only the Brave”at its screening in San Diego. Cast L-R: Mike Hagiwara, Greg Coatanabe, Tamlyn Tomita, Gina Hiraizumi, Lane Nishikawa, Yuji Okumoto, Mark Dacascos, Jason Scott Lee, Trace Murase, Michael Sun Lee, Ken Narasaki.
そうです。大学生だった私はこれらの事柄について常にリサーチを行い、多くのことを学んでいたのです。アジア系アメリカ人に関する内容は、全て私の執筆によるものです。当時の私は著書も出版して作家としても活動しており、サンフランシスコ州立大学から創作文章クラスの講師として依頼を受けました。ですから、私の最初の創作劇“Life in the Fast Lane”が上演を迎えるまでの数セメスターは教壇に立っていました。“Life in the Fast Lane”はアジア系アメリカ人の作家が出版を実現するまでの苦労を描いた作品です。作家とは如何なるものかをテーマに、私は登場する全てのキャラクターを演じました。この作品は全米19都市をツアーで巡ることになり、この時点で私は大学を辞めました。その後、再び大学へ戻って学位を取得しましたが、両親は当時の私を見て「息子は一体何をするつもりなのだろう」と不安に思っていたはずです。
—— 会計士のお父様から実務的な道を歩むように説得されましたか。
勿論、それは当然です。私の父は「ミスター・プラクティカル」とも呼ぶべき人物で、「学校へはいつ戻るのか」「会計や不動産業を目指したらどうか。とにかく、生きていく術を身に付けなさい」と常に言っていました。父は俳優や作家の道が厳しいことを知っていました。私は“Life in the Fast Lane”のツアーに膨大な時間を費やしましたが、相応のギャラも支払われ、どうにか自分で生計を立てていました。父は私を心配しながらも劇場へ足を運んでくれました。作品を観賞することで、私への理解を深めてくれたと思います。他界した私の祖母を扱ったシーンが序幕にあり、それはどこにでも見られる典型的な祖母像でしたが、父は台本のコピーが欲しいと言うのです。それを日本語に訳して、日本に住む親族に送ろうとしていました。父は私に経済的な安定を望む一方で、私の仕事に敬意を払い、誇りに思っていたのです。
—— “Life in the Fast Lane”のツアー後は。
4年を費やしたツアーから戻ると、アジア系アメリカ人劇団から芸術監督就任の要請があり、私はそれを引き受けました。その時点で、私は演出家としても役者としても数多くの舞台を経験していました。劇団の運営において、私たちが尽力したことの一つは連合体を形成して俳優の生計を助けることでした。例え、予算が3倍に膨らんでも俳優たちにギャラを支払い、福利厚生さえも得られるよう努力しました。それは実に困難な道のりでしたが、その努力が実って今では正式な劇団となり、注目を集めるようになりました。私たちは10シーズンに渡り、俳優労働組合と契約を結んで作品を製作してきました。私はこの実績をとても誇りに思っています。この間、私は寝食を忘れて、俳優、脚本家、演出家らの育成に没頭していたので、私自身が為すべきことを考える暇がありませんでした。劇団運営が軌道に乗り、ようやく自分のワンマンショー “I’m on a Mission from Buddha”を製作しました。この作品もツアーを行い、KQEDチャンネル(サンフランシスコ)のPBSで全米放映されることになりました。この時期から、私は徐々に舞台の任務から離れていきました。
—— ツアーの間、使命を感じていましたか。
誰もが独自のスタイルで創作活動を行いますが、私は自分の観点からアジア系アメリカ人の体験を考察し、歴史的、政治的、社会的に伝えたい内容をテーマに舞台を制作してきました。これらの作品を観た客は、アジア系アメリカ人男性に対して、それまでとは異なる見方・視点を獲得して劇場を去っていきます。私は真実への探求を心掛け、それに皮肉、風刺、ユーモアを絡めながら人々に伝えようとしたのです。使命というものがあるなら、真の姿を観客に見せるということだったと思います。“I’m on a Mission from Buddha”は私が長年積んできた演劇経験を通して、チャンスが与えられた時に役者は何ができるのか ̶̶ということを描いています。
その後のワンマンショー“Mifune and Me”では、今ではビジネスになった映画や舞台の世界で私が長年観察してきたイメージをベースにしています。メディアが私たち日系アメリカ人をどのように捉えているのか、三船敏郎をヒーローとする私がなぜこの国では彼のような存在になれないのか ̶̶ ということを検証しています。実際、三船敏郎は私にとってのジョン・ウェインでした。私は彼の全作品を観ていますが、それでもテレビで『七人の侍』が放映されていると、チャンネルを合わせて「また100回くらい繰り返して観なければ」と思ってしまいます。それほど、彼のキャラクターは飽くことのない時代を超えた存在です。そして、アメリカでは彼のようなヒーローが誕生することはないのです。
——ハリウッドにおけるアジア系アメリカ人俳優の状況についての見解は。
Lane Nishikawa at the San Diego Asian American Film Festival last October.
私が“Life in the Fast Lane”のツアーでロサンゼルスを訪れた時、友人が彼のエージェントを紹介してくれたのです。私との契約を望んでいた彼らは、遠くベイエリアに住んでいた私を考慮してか、短いセリフで終わるような端役を紹介することはありませんでした。でも、これは20年前の話です。当時はアジア系アメリカ人が登場する作品は極少でした。今で言う “Lost”、“Crouching Tiger”、“Law and Order SUV”のような作品は皆無で、唯一知られていたのがブルース・リーくらいのものでした。
—— 初の長編映画“Only the Brave”には多くの優れたアジア系アメリカ人俳優が出演していますが、どのようにして彼らを集めたのですか。
私は、今まで積み上げてきた実績や学んだことは、全てこの映画のための準備だと感じていました。脚本、演技、演出、製作、劇団運営、資金調達、予算管理、デザイナーとのやり取り、締切調整など全ての経験がこの映画に役立ったのです。舞台では低予算で如何にやり繰りするかを苦慮しなければなりませんでしたが、“Only the Brave”は2003年にカリフォルニア市民の自由公共教育プログラムより助成金を受けてスタートしました。その後、全米日系人歴史協会と共に寄付キャンペーンや民間情報源を通しての資金調達を行い、同時に私は脚本の執筆を開始。脚本は間もなく完成しましたが、資金調達は困難を来たしました。
私は始めたばかりなのです。また新しいスタートを切りますが、言ってみれば、今は初作品を作り終えたような気分ですね。これからも舞台と脚本家の道を突き進んでいきます。映画のアイデアも結構あるので、その計画も具体化していきたいと思っています。“Only the Brave”に出演した俳優全員が「次はどうするのか」と私に尋ねてきます。彼らは意義深いストーリーが語られる作品に関わりたいと願っているのです。ですから、彼ら全員に「次の作品にも是非出てくれ」と言い続けています。次作には巨額の製作費を投じることになりそうです。そうすることで、より多くの素晴らしい人々に参加してもらえますから ̶̶ 。
(2005年11月16日号に掲載)
レーン・ニシカワ
舞台、映画、テレビの世界で脚本家、俳優、監督として活躍。アジア系アメリカ人の体験に焦点を当てた作品の製作を行う。脚本、監督、出演を兼ねた最新作
“Only the Brave”では
第二次世界大戦時の日系人兵士による第100歩兵大隊や第442連隊戦闘団の物語を描く。ハワイに生まれ、サンフランシスコへ移住。サンフランシスコ州立
大学へ進む。学生時代に執筆や詩の創作を始め、大学で創作文章とアジア系アメリカ人研究について教鞭を執る。脚本・出演の3部作ワンマンショー“Life
in the Fast Lane”、PBSで全米放送された“I’m on a Mission from Buddha”、“Mifune and
Me”を手掛け、一方で サンフランシスコの日系アメリカ人劇場で10年間芸術監督を務める。その後、他のプロジェクトに参加しながら、“The
Gate of Heaven”、“Gila River”、“When We Were One”、“We Were
Brothers”、“Forgotten Valor”など自身の作品を製作。全米芸術基金
(NEA)、全米日系市民協会(JACL)、ABC-TV、ハーバード財団に対する貢献で高い評価を受けている。